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古典の「読みにくさ」の正体

広島国語屋本舗現古館 館長の小林です。

 

古典に苦手意識を抱く生徒は少なくありません。

 

単語や文法を覚えたつもりでも、なぜか内容が頭に入ってこない。

 

問題の正答率が上がらない。

 

そうしたとき、「古典は難しい」とひとくくりにしてしまうのは簡単ですが、実のところ、難しさの根本はもっと別のところにあります。


それは、古典作品が描いている「世界観」が、私たちの生きる現代とはまったく異なるということにあります。

 

言い換えれば、「古典が読めない」のではなく、「古典の世界に住む人々が、何を当たり前としていたのかを知らない」ために読めなくなっているのです。

 

 

古典の世界観

たとえば古文における「夢」の扱いは、現代のそれとは根本的に異なります。

 

今であれば「夢なんてただの脳の整理だよね」と一笑に付されるような夢の内容が、かつての人々には神仏からの「お告げ」として重大な意味を持っていました。


夢を解釈する専門職がいたほどですし、さらに「良い夢を人に語ると取られてしまう」という感覚すら存在しました。

 

また、武士の倫理観に立てば、「恥をかくくらいなら死を選ぶ」ことはごく自然な判断であり、主君が亡くなった際に家臣が自ら命を絶つ「殉死」も、理想的な忠義の形として受け入れられていました。


このような感覚は、現代においては理解が難しいものかもしれません。しかし、彼らにとってはそれが「まっとうな価値観」だったのです。

 

漢文の世界に目を移すと、たとえ話や歴史上の人物の逸話が頻繁に登場することに気づきます。


これは単なる修辞の遊びではなく、為政者に対して意見を述べることが命がけであった時代背景を反映しています。


直接的な批判を避け、遠まわしに、しかし確実に意図を伝えるための手段が、寓話や故事だったのです。


たとえば「昔の聖人はこういうふうに振る舞った」という語り方を用いれば、表面上はただの歴史談義でも、聞き手はその裏にある諫言を読み取らざるを得ない。


そうした高度な言葉のやりとりが、文章の中に折りたたまれているのです。

 

世界観を取りに行く

こうした古典の世界観は、日常生活の中で自然に触れることはまずありません。


テレビをつけてもSNSを見ても、現代の感覚で満たされた言葉ばかりが並んでいます。


つまり、古典の背景にある感覚は、意識して触れにいかない限り、身につくことがないのです。

 

ですが、かしこまった文献だけが入口ではありません。


『あさきゆめみし』のような漫画でも、『三国志』を題材にしたゲームやドラマでも構いません。


大河ドラマの中に描かれる時代背景や人物の価値観に興味を持つことも、立派な接触の一歩です。


楽しめる形で、古典の世界を感じる機会を少しずつ積み重ねていくことが、理解への近道なのです。

 

ときおり、「古典の人物も現代の私たちと同じように感情を持った人間」といった紹介のされ方を見かけます。


たしかにそうかもしれませんが、もし「同じ」だけで済ませるのなら、小説を読んでいれば十分なのではないでしょうか。

 

古典の醍醐味は、何よりも「違い」にあります。


夢に人生を託す人、名誉を守るために命を絶つ人、言葉に命を懸ける人――そうした異なる常識に触れることで、現代の私たちの感覚も相対化され、より豊かに、深くなるのです。

 

違っているからこそ面白い。

 

違いを面白がれるようになったとき、古典はただの受験科目ではなく、極上のエンターテインメントに変わります。